死について

 

夢も希望もない。20を過ぎた。もう死にたい。そんな思いを抱きながら、しかしわたしは生き続けてきた。なぜだろう?

 

それは、人のために死にたくないからだ。死ぬときくらい自分のために死にたいのだ。なんで死ななきゃいけねえんだよ、テメェが死ねやと思っているからだ。たとえばわたしはななちゃんというゲス女にいじめられていたのだが、ななちゃんのために死ぬなんてそれこそ死んでもごめんだ。自死を遂げる人、自分のためならまだしも、他人のために死ぬ人って案外多くて、そういうのってやだなあと思う。わたしは少なくとも。

 

友達が死んで、半年経った。

 

彼女が好きだったカレー屋に行こうと思う。誰かついてくる人はLINEして、おいしいから。

 

半年経って、悲しさはすり減った。もう日常になってきた。虚しいものだ。人の死なんてこんなものか。それと同時に考えた。

 

 

生きている人にとって、死を感じるものはなんだろう?

 

故人が残した手紙?故人の植えた花の咲く季節の香りか?それとも故人の部屋のクローゼットの匂いか。はたまた、故人の眠る石の家か。線香の匂いか。故人のすきだったあのカレー屋か。それとも、それら全てか。

 

わたしの答えはSNSだ。更新が途絶えたSNSこそ死の宿る小さな馬車だ。そうだな、あなたは村人、ということにしよう。想像して。あなたは小さなプレイヤーになった。毎日あなたは薪を売りに街へ降りる、その途中でいつも小さな馬車に乗るその人に会う。何気なく会話する。それが常だ。なんとなく毎日会うもので、なんとなく心安らぐ時間だ。それがどうだろう、ある日馬車を見つけると、馬は愚か中には誰もいなかった。次の日も、その次の日も、馬車はあり続け、そこから顔を出すその人の顔さえ思い出せるのに、従者すらいなくなり、動くことはもうない。人が死んだ時になくなるものは、その人という存在だけでなく、その人と他の誰かと三人でいたときの空気感や、その人がいるTwitterのタイムラインの心地よさや、その人に話そうととっておいたとっておきの噂話や、次見かけたら声をかけようとした新しい髪色への褒め言葉や、そういった、その人の関連するもの全てを掻っ攫っていく。

 

悲しいことだね。でも、その人が死を救済だと思っているのなら、止める権利は誰にもない。だけどそれと同時に、止めなきゃという義務もないんだよ。死とは自分の責任なんだから、きみは肩の力を抜いていい。事故やら病気で死んでしまうのもきっと運命だし、自死してしまう人が死ぬか明らかな手綱も結局その人がもっているんだ。生きていたら何度でもやり直せるなんて、そんなことは言えない。青春は何度でもやり直せるなんて嘘で、それと同じだ。でも生きていたらチャンスがある か も し れ な い 。 それが全てだが、それが救いで、それは絶対だとおもう。

わたしは、死にたい人は死ねばいいと思う。でもそれに足掻くことこそ生きるということではないのかな。わたしはこのまま死ぬのはくやしい。だから死なない。君はすきにするといい。好きにしたから、君は死んでしまった。あの毒親の下で彼女は葬儀をちゃんとされたのか、それだけが心残りだ。彼女の親の変な新興宗教で成仏できるだろうか。

 

さて、ここまで読んでくれてありがとう。あなたにとって死とはなんですか?救済ですか。恐怖ですか。それとも、当たり前ですか。

 

よかったらこっそり教えてね。