パパ

 

パパのことを、いつか忘れてしまう。

 

父が死んだというポストをみて、辛くなると同時に、わたしは父のことをどれくらい知っているかと首を傾げた。

 

父が存命のうちに、なんだか変わった父のことを記しておきたくなった。

 

下の名前は少し変わった名前で、わたしは父とおなじ名前の人をこの世で一人も見たことがない。漢字の読み方は難しくないのに何故かいつも間違えられて、子供を産んだらひらがなの名前をつけると決めていたらしく、例に漏れずわたしも妹もひらがなの名前になった。(もし産まれてくる子供が男でもひらがなだったらしい。)聞いたことはないが、父のコンプレックスだったのかもしれない。

 

父はわたしに生命力にあふれるようにとこの名前をつけたが、そんな結果が精神病持ちとは不甲斐ない。

 

父の40のときの子供がわたしで、それが初子なのだから、だいぶ遅い子供だ。

 

父の実家は養鶏場だった。昔はわたしも近所の人にたまごやさんの子、と呼ばれていた。父は鶏肉があまり好きではない。子供のときに一生分食べたらしい。なのに得意料理は親子丼だ。矛盾を感じる。(これほんとにおいしいよ。)

 

公立の中学校で、大学を出てから定年までずっと教員として働いていた。国語の教師だった。

この地域でいちばん頭が良い高校に学ランを着て下駄で通い、そこそこ有名な私立大学を1年浪人して入った父は、下宿をして卒業しすぐに教師になったが、ほんとうは戦争で悪くなった祖母(父の母)の足を治したくて医者になりたかったらしい。すごく真面目で、地頭が良いんだと思う。

 

祖母は名古屋の良いところのお嬢さんで、女学校の時に戦争で防空壕に逃げたら1人だけ助かったらしい。

 

だけど高校の時から煙草を吸っていて(本人ははぐらかすがぜったいそう)、かなりのヘビースモーカーでセブンスターの10ミリをいつもたゆたわせている。車の中でも吸うので父の車は独特な香りがする。別に嫌な香りでは無いけど、慣れているのかもしれない。ハンドルを切りながら紫煙を窓の外に吐き出している。たいていダイニングのテーブルにはセッタの箱が散らばっている。いや、教員時代どうしてたん?

 

寝る時はTシャツにパンツ一丁で長袖を着ていてもなおパンツ一丁。なのに風邪はほぼ引かないし、退職してからは8時には寝てしまう。

 

でも、教員時代狂気のように働いて、日付が変わる前に帰り、朝にはもう居ない父を考えると、人生の睡眠時間をここで調整しているのかもしれない。

 

教員時代の父は本当によく働いていた。部活の顧問も持っていたので土日もいないことが多かった。

 

だいたい穏やかだけれど、歳をとって小言が増えた気もする。あと変な人で、謎のこだわりが多い。効率的と自分が信じたことはうたがわないし、アドバイスも基本きかない。頑固。

 

Tシャツに異様なこだわりがあり綿100パーセントしか着ない。

わたしが高校生のとき、見かねてネイビーのセーターをプレゼントした。なんの日だったかな。父の日?誕生日は7月だから、なんの日だろう。そうしたら気に入ったらしく、一張羅のようにママに「○○ちゃん(わたしのことだ)のセーターは?」と聞いているのを何度も見たことがある。

 

あと目の色がすごくきれい。グレーと茶色を滲ませたような不思議な色で、わたしは眼鏡をかけている父にたまに目見せて、と言う。父はいつも初めてその言葉を言われたような顔をして眼鏡をとって、決まってひとみにひかりがあたるように上をむく。

 

水風呂がすきで夏は人魚にでもなりましたか?というくらい入っている。わたしにもめちゃくちゃにすすめてくるが、わたしは水風呂は苦手である。

 

退職してからは毎朝あさごはんと、たまに昼も夜も作っている。男飯って感じだけど、作るのは楽しそうだ。ちなみにたまにとてもおいしく、たまにびっくりするくらいおいしくない。ギリ食べられるってこのことか……と素材に感謝しながら食べている。父ってたぶん馬鹿舌(ごめん)なので、食べられれば良いのだと思う。あと父の飯にレシピなんてもんはない。おにぎりを三角に握るのはうまい。

 

父は元々理系で、わたしが数学のテストで6点をとったあと教えてあげるよ……と言われて習ったがスパルタで怖かった。めっちゃ怒鳴られた。イライラさせすぎて煙草吸いに行っちゃったりした。

 

あとたぶん何かしら持っている。たまにすごく機嫌が悪かったり、鬱っぽくなったり、でもこれは最近かも。

 

父も歳をとった。わたしが歳をとるということは父も歳をとるということなのに、父はわたしが都合の良いときのままで止まっている。

 

出かけるのがすきだし、いつもわたしを誘ってくる。わたしぬきでも母とドライブやバスツアーに行っている。運転が好きなのか?

 

子供の頃は空いている日があると車で行けるテーマパークにわたしと妹を連れて行ってくれた。

 

むかしはよく旅行に行った。奈良、京都は教員だから修学旅行で何度も行っていたけど、プライベートで行ってみたいらしく数回行った。(父は当時体力おばけだったので疲れている中、夏に連れ回されて、フォトスポットだよここ!と教えてもらったのに乗り気じゃない返事をしてしまったことをくやんでいる。)グアムも行ったし、父とふたりで台湾も行った(九份に行きたいといったら謎のこだわりで却下され、その辺の少し小汚い店で小籠包を食べたら美味しくて2人で感動した。その前に一日ツアーで色んなところに行き、お土産屋さん?に最後連れていかれてあわよくば買って♡というツアー主の魂胆みえみえのツアーだったが、お土産屋さんで父が笑顔でぼったくりだ!と叫んだのが、恥ずかしかったけど面白かった。あとそこのコース料理よりここの小籠包のがうまいと騒いでいた。) 

 

あと音痴。音痴は父からの遺伝。

 

褒められる鼻もくちびるも、縦長の爪も、父の遺伝(ありがとう)。

 

父がうざいなと感じるときたくさんある。でも父が死んだら後悔するだろうなと思う。どうしたらいいのかはわからない。

 

「家族嫌悪」ってあるとおもう。

家族だと絶対的な血の繋がりがあるから、人にはナイーブに話さなければならないことも直接的に伝えてしまうし、なぜか家族とどこかに行くのはだるく感じる。気のない返事をしてしまうし、イライラしてしまう。強く当たることも多くなる。自分の名前が嫌いという人たまにいるけど、なんかそういう感じなんだと思う。持って生まれた当たり前のものだから、無くならないと信じて、どこか甘えているんだね。

 

父はわたしに母がしたことを知らなかった。知ったのはつい最近で、父は唖然としていた。母はヒステリックになって喚いた。

 

でもなんだろう、その時にすごく家族を感じた。

 

建て直すとかそういう事じゃなくて、全てを共有したようなまっさらな気持ちになった。

 

いま、精神科に家族療法的なもので家族で通院している。基本的にわたしが話すが、よく分からなくなるときは母に助けを求める。父は言葉を挟んでくるが、父の考えは凝り固まっているので、父の言葉を遮ることもある。

 

でも、パパ、悪い人じゃないな。

 

うざいなとおもっても、やさしくできなくても、家族だもんな。

 

昔は家族は一種の鎖で早くちぎりたいと思っていたけれど、やさしくなりたい。

 

いなくなるのが、こわい。

理解されなくてもいちばんの理解者だから。

 

むかし泊まったホテルにもう一度行きたいとパパがつぶやいた。来年いけたらいいなとおもう。そしたら写真を撮る。

 

また思い出したら追記する。

前略、みならい天使たちへを終えて

 

2024年の8/9から8/14まで、グループ展、『前略、みならい天使たちへ』を行った。

 

まずメンバーの紹介をしたいと思う。長く一緒にいて染み付いた好きな色、イメージカラーがあるので添えておく。

 

わたし

みり。文を書く。無職。ピンク。

 

けんちゃん

けんと。イラスト、アニメーション。営業。イエロー。

 

あやちゃん

あやこ。アクリル画モノグラム。映像職。ブルー。

 

時を戻そう。

私たちは小学校の入学式で出会った。

家も近く、田舎の全学年ひとクラスしかない小学校で。

そんなある日、私たちは、毎日メンバーのひとりであるあこ(あやちゃんの当時のあだ名)の家に毎週金曜に集まり、その日をあこでーと名付けて創作をしていた。完全にバクマン。の影響だったが、それがかけがけのない日々になった。

 

中学に上がっても仲の良さは変わらず、高校ではあやちゃんが離れて私とけんちゃんが同じ高校に進んだが、私とけんちゃんは毎日一緒に帰り、けんちゃんの教室まで迎えに行ったり、けんちゃんがきてくれたりした。

 

大学でこれまた不思議なことが起こり、数多ある大学のなかで、けんちゃんとあやちゃんが同じ大学の同じ科に進むことになった。私も都内の大学に進むことになり、全員で上京し、ときに実家に帰り、笑いあった。

 

私の鬱が酷くなり家に引きこもると、コロナでリモートになり実家に帰っていた2人が毎日のように家に来て、何を言わずとも好き勝手話して、ただただ一緒にいて、一緒にご飯を食べてくれた。

 

そんななか、わたしは展示をやりたいという話をした。来年25になるとき、場所は居酒屋だった。

 

文しか書けないからキービジュアルに困ること、華がないかもしれないこと、一人でやるのが不安なこと。話していると、けんちゃんが口を開いた。

 

「じゃあ俺らでやる?」

 

そこからあれよあれよとあやちゃんが見つけてきたギャラリーに私が連絡し、1年以上前から場所を抑えることになった。

 

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搬入の日、つまりは前日、私を含めたメンバー3人のうち、私以外のふたりが遅刻した。仕方の無い理由だった。今日かー!となり、誤差のような遅刻だったし、私があまりにきっちりしているのも分かっている。だがしかし、ナイーブになりすぎて、1人でギャラリーの方に会って他のふたりが遅れることを説明できるかが不安で、ドクドクと胸が脈打ち、大丈夫大丈夫と言い聞かすも、パニック障害持ちにそれはあきらかに気休めにしかならず、結果中野駅過呼吸を起こしトイレに篭っていた。震える手を抑える姿はさながらもののけ姫だったし、トイレから出た顔はチークの下でまっとうに青ざめていて怖かった。

 

ギャラリーの方はとても優しく、しどろもどろになりながらそれぞれの理由で全メンバーが集まるのが遅くなることを説明してもさほど気にしていないようだった。安心して血液が巡っていくのを感じた。

 

その後はずっと設営。

みんなで私の文を貼るのを手伝ってくれたり、中野ブロードウェイの百均に買い出しに行ったりした。みんなで作業をしながら、役にも立てなければ楽しくもなかった文化祭を少しだけ思い出した。

 

初日と最終日はギャラリーが空いている時間が無いほどに大盛況だった。

 

お客さんは有難いことに途切れ途切れでも毎日何人も来てくれた。

 

久しぶりの再会はもちろんのこと、気になってフラフラと入ってきてくれる知らない方。私が推していたアイドル。私をアイドルだと思っていてくれて、アイドルになった子。大好きな詩人。たくさんの人の意外な出会いにびっくりした。

 

ある日、スマホの調子が悪く、BGMをかけるためにBluetoothを繋いでからはずっと離れた場所にしかないコードで充電していた。座って何も見ずただじっとしている私を見兼ねたのか、手伝いに来てくれた妹が本でも読めばと分厚いハードカバーを貸してくれた。受け取って、読んで、人の対応をして、繰り返していたら、あっという間に読み終わってしまった。

 

文字が滑ることなく、こんなに厚い本を、しかも続いている紙の物語を一気に読めたのは、何年ぶりだろう。

 

もう読んだんだ!と妹から驚きの声をもらい、はっとした。そうか私は今この本を、ほとんど一気に読み切ったのだな、と思うと、ジワジワと嬉しかった。

 

躁鬱に振り回されて、紙の本なんてしばらくきちんと読めていなかったから。

 

 

 

このわたしになにか成し遂げられるなんて思っていなかった。

 

無職で社会に出たことの無い私が、7日間とにかく立ち続け、段ボールいっぱいにつめてギャラリーに受けとってもらった本を数冊にして、箱を潰してリュックに背負って帰った。最終日の居酒屋で、売上から私の文章が売れた分だけあやちゃんに手渡されて、自分でお金を作ったのだなとしみじみ思い、そして泣いた。それだけで嬉しかった。

 

 

 

青田に囲まれた青春を、きっと忘れることは無い。あやちゃんの家で完成しない漫画を書いた日々も、やけに滑る高校の階段をけんちゃんと駆け下りた日々も、お互いの誕生日にサプライズし合った大学時代も、すべてが、手が届かない距離でうつくしく光っている。

  

 

 

 

みんな、みならい天使なのだ。なんならきっと生きてるうちずっとみならいなのだ。だから、まちがえても、うまくいかなくても、みならいなのだから、しかたないのだ。私たちは、神にはなれない。だけど、神を目指す、天使にはなれるのだ。

 

 

 

 

 

来てくれた方、気にかけてくれた方、本当にありがとうございました。

 

そうじゃない方も、健康と安寧を祈ります。

 

 

 

 

‪✝︎🪽🫧

 

前略、みならい天使たちへ

2024.08.09-2024.08.14

永月未璃・あやこ・KENT

"meee" Gallery Tokyo

 

‪✝︎🪽🫧

 

24歳になる前に死ぬと思っていた

 

24歳になる前に死ぬと思っていた。

 

それはなぜかは分からないけど、大好きな山田花子も、南条あやも、24になる前、もしくは24で死んでいるし、なんとなくじぶんもそうなるんじゃないかと思っていた。

 

でもわたしはきのう、24歳の誕生日をめでたくむかえた。

 

ちっぽけな人生を色々振り返っていた。

 

このブログは消すかもしれない。全てを語りすぎる気がするから。

 

まず母のことを思い返していた。

すぐに思い返すのは、わたしに投げた携帯の角が当たって流れる血に、携帯の方の心配をしていたこと。ヒステリーを起こすと止まらないこと。制服を2階から捨てられたこと。教科書を雨の中庭中にばらまかれたこと。悪いことをすると絶対に外に出されること。真冬のお風呂上がりに裸足にタンクトップで外に出されて意識がくらむまで中に入れなかったこと。真夏に衣装ケースに入れられたこと。ピアノのお稽古が終わる5分前からお迎えにきて、そのあいだに間違えると叩かれたこと。お家で練習している時に間違えると太ももをつねられて常にアザだらけだったこと。家庭教師でミスがあると正座で怒鳴られたこと。手当り次第投げてくる物が当たって痛かったこと。椅子を何度も何度も振りかざされて怖かったこと。母がむかし行きたかった高校を受験させられて、行きたい高校に行かせて貰えなかったこと。精神科にいくとき、制服だとバレるからと車の中で着替えさせられたこと。

 

頭が良くて、優秀な子にしたかったんだと思う。なれなくてごめんなさい。

 

ママの行きたかった高校、本当は全然行きたくなかった。制服ダサいし。

 

でも母は、酷いことだけする人ではなかった。

 

わたしのなかで、酷いことをされた記憶があまりにも濃くて、忘れかけてしまうけど、そんなことない。

 

だから、苦しい。

 

たくさん買い与えられた本や、車でないと行けない図書館に数え切れないくらい連れていってくれたこと。美術館、博物館、演劇、エンターテインメントを教えてくれたこと。お誕生日にプレゼントしてくれた宝物になったミュージカル。殴ったあと、酷いママでごめんねと必ず抱きしめに来たこと。泣きながらママに私も謝ったこと。一緒によくクッキーを焼いたこと。バナナケーキも!私が見たいドラマを絶対にとっておいてくれること。東京の大学に行くことを許してくれたこと。父が渋った一人暮らしを説得して許してくれたこと。二重の整形の付き添いに来てくれたこと。東京で泣きながら死にたいと弱音を吐いたら、夜に車を飛ばして迎えに来てくれたこと。大学を辞めることを許してくれたこと。いまこんなふうになってしまってから、気分を気にかけてくれるようになったこと。

 

わたしはふつうになることはできないかもしれない。

 

ボロボロだった心は癒えているかわからない。

というか、心は確かにボロボロだったけれど、それが母が原因かは、神のみぞ知るところだと思う。

 

でもわたしも母も、いまは分かり合えなくても、分かり合える方向には、着実に進んでいる気がする。

 

分かり合えなくても、ぶつかり合わないようにしたいなと思う。

 

それって虐待ですよね?と精神科の先生やカウンセラーさんに言われても、出来の悪い私も悪かったので、と答えるばかりだったが、それが正解かもわからない。

 

でも確実に辛さの根源は母に「も」あって、それは解決しなくちゃいけないんだと思う。

 

それがわかっただけ、ぜったいに成長だし、わたしはきっと、この辛さと向き合って、いつか本当の「大丈夫」になりたいなと思う。

 

 

 

 

 

 

愛、そしてエゴ

 

人を愛することは、エゴと同じだろうか。

 

最近常々そんなことを考えていた。

 

私は昔からお人好しだと言われることが多かった。幼稚園の夕涼み会の輪投げの券は欲しいと言われたら頑張ってねとあげてしまうし、おとなになったいまも、電車の席で2人組が別れて座るくらいならと立っているなら場所を移動する。そしてお互い、ぎこちない会釈をして私はスマホに視線を戻す。でもそれって親切なのかな。

 

私は、もしライブハウスでのライブで良い整番を引いた日にお誕生日の子がいたらその子にあげたいし(それがたとえ1番でも)、LINEでスタバやらアイスやらをあげたいし、プレゼントをくれる子ならあげ返したいし、だって、生まれてきてくれてありがとうって、行動で示したいから。

 

生まれてきてくれてありがとうって言われたいからやるのかな。でもやられなくてもなんとも思わないんだと思う。生まれてきてくれてありがとうって、行動しなきゃ言われないと思っているけど、行動しても言われる確証は無いと思っているから。

 

生まれてきてくれてありがとうって、みんな思われたくないのかな。思われたいというのもエゴだろうか。決めつけ?誕生月だから(きょうから)ナイーヴになっているのかもしれない。

 

行動って、モノって、浅はかだろうか。

 

私は人のこころに入り込むことや、みんなが持っている独特のうつくしい世界観を持つことが苦手だから、肩を竦めて頭を動かして、いつも好きな人がどう幸せに生きられるか、そればかり考えている。その人に好かれていなくても、私が好きなら充分な気がしてきている。でもやっぱり嘘、そこまで大人になりきれないかも。24歳になろうとしていても私はまだまだもろくて、自立した大人になりきれない。だけど苦手な人とか変なところだけ明確になってきた。24歳になったらもっとグレードアップするんだきっと。

 

今月は個展(正確に言うとグループ展)のギャラリー見学に行ったり、生きなきゃいけないことがいっぱいだ。みんな来年の8月空けておいてください。

何者かになれなかったけど

何者かになりたいとずっと思っていた。

 

小学校低学年の頃に県だか国だかの賞に勝手にノミネートされて何故かそのまま何賞かわすれたがとってしまい、今思えば格式高そうなホテルに呼び出され、会場内でひとつひとつ評価をしていく謎のタレントさんとアナウンサーさんに愛想を尽かし、つまらなすぎてロビーでDSをしていたところスタッフさんに○○ちゃん?そろそろ○○ちゃんの番だからね、行こうね~と言われてあれよあれよと連れていかれ、電源切れる?と言われセーブもしていないのに軽いパニックでうんと答えて消してしまった。ところから、全ては始まったのかもしれない。

 

私は文章なら特別になれるかもしれないと、誰かに見つけて貰えて、豆電球ほどでもいいからスポットライトが当たるのかもしれないと。

 

だってそうじゃなかったら高校のころ増田(はてな匿名ダイアリー)に毎日のように書きなぐって、書きまくったせいで増田に張り付いてる人にあの時のお前だろ!と文体からバレたりしなかったと思う。

 

私がいま誰かの特別かと聞かれると、それはまだ分からない。だけど、私の文を読みたがる人が居る。それだけが確かで、事実で、この上なく幸せなんじゃないかと最近思う。

 

私が取った賞のとき、もう何を書いたのかもよく覚えていないが、謎のよく分からない評論家の人が、こういう時期あるんですよね、でもそれを言葉にできる子は少ないから、とベタ褒めしてくれたことを覚えている。この子は文が上手ですね、これからも書いて欲しいですねと。名前を覚えていたら美談だったかもしれないが、申し訳ないことに苗字も出てこない。

 

23歳になった私に、才能は、多分ない。だけど、普通に生きるよりは文章を書いて来た。そして、ひとつ願えるなら、あなたのそばに居たい。

 

くぴぽのまきちゃんのブログを読んだ。からこれをかいているのだけど、私は彼(と呼ぶべきか、彼女と呼ぶべきか、有識者は教えて欲しい)のことを全くと言っていいほど知らなかったが、文章がすごく上手だと思ったし、わたしにつうじるところがあるんじゃないかとおもったのだった。

嗚呼

 

嗚呼、早く、完全な自分になりたいな。

 

やりたいことは沢山あるの、口にピアスを開けて、タトゥーを入れて、ネイルと髪色がOKな職業について、いわゆる安泰を手に入れたいの。

 

真っ白な腕を見ているとどうしてタトゥーが入っていないんだろうと気分が悪くなる、唇を触るとどうして何も無いんだろうと不思議な気持ちになる、でもそれが叶うことってすごく難しいんだって。

 

なんだか私が私じゃないみたい、早く完全な私になりたい。

 

わたしがねがう、わたしが描いたとおりの、わたしになりたい。

 

アットマークきみへ、君は君の思う君で居られてる?

インターネットの海、透明な夏

 

今年の夏は、透明な夏だ

 

iPhone内蔵カメラみたいな、現実より0.1トーン薄暗い夏だ

 

インターネットの海が、少し冷たすぎて

自分は人魚なのに、環境がしんどい様な

 

夏が訪れて、気持ちが、ぐるぐると、グズグズになるように崩れて、置いてかないでよと叫びたくても、出来ないから、他人からあずかった、きらめく大切なものを、落としてしまった様な、焦燥感に駆られて、苦しくて

 

ぷっくりとしたリストカットの跡もきっとアクセサリーだよ、輝いていなくても